『SAGA』 第一章






第十九話 『右の仮面』



 カノンが聖域から姿を消すこと自体、それほど珍しいことでもなかった。

 いわゆる『脱走』行為であることに変わりはないが、聖域で何の役職を持たぬ彼の姿が消えた ところで、誰かがそれに気が付くはずもあるまい。
 候補生時代に、身元が伏せられていたことも手伝って、彼の存在自体を知らぬ者が大半である ことも彼の『脱走』を容易なものにしていた。
 訓練生や一般兵が脱出するには困難を極めるような崖や谷も、 彼ほどの実力を持ち合わせていれば大した苦にもならないはずであろう。
 それ以前に、身なりをそれ相応に整えてさえいれば、堂々と正面から脱出を図ろうとも、警備の 兵に咎められることもない。
 『いってらっしゃいませ、サガ様』と深々と一礼されるだけなのである。

 脱走時に限らず、カノンがサガのフリをすることは比較的日常的なことでもあった。
 本人がそれを望んでいるわけではないようなのだが、相手から勝手に間違えてくれるのである。
 まさか自らの素性を明かすわけにもいかず、適当に話をあわせて置くほかない。
 今では彼も慣れたもので、サガと鉢合わせをしたり、辻褄が合わない事態にならないような時と 場所を選んで、必要に応じて『利用』を繰り返しているようでもあった。

 そのことを知っているのは、サガの他にはアイオロスのみであるはずだ。

「・・・・・・」

 木戸を開け放ち、名を呼ぼうとしたものの気が変わる。
 中にいないことは明らかである。

 古びたその家は、かつてカルディスがジェミニの候補生達を訓練していた時に 使っていた物であった。
 元々彼が住んでいた家ではなく、弟子をとった折に住み替えたものと聞いている。
 居住区から離れた森の入り口に面したその家は、あまり人目につくこともない。
 当時は現役の黄金聖闘士であった彼が、必要以上に目立たず次代の訓練を行うには最も適した 場所であったのだろう。
 在席していた黄金聖闘士が、彼の他にはアクエリアスだけであった当時の現状では、他の土地に 移り住んでの訓練は不可能だったと、後に聞いたこともある。

 現在では家主であるカルディス本人が聖域に不在であるため、その管理は本来ならば雑兵にでも 任せるべきなのであろうが、カルディスに代わりサガが直接の管理を請け負うこととなっていた。
 場所柄、当然誰も近寄ることはない。
 カノンが身を隠すには、最適の場所でもあった ―――――

 称号試験のすぐ後、2人は共にこの家で過ごしていた時期もあった。
 試験後すぐに、カルディスがこの家を離れ、他の候補生達も別の師に つくために聖域から旅立っていった。
 その時のサガは、このままカノンがここに留まり続けることが当たり前の ことだと考えていたのである。

 やがて、黄金の聖衣を纏うようになったサガは、この家から出ていった ―――――

 単に、聖域中心部から離れ過ぎているこの家が不便なためでもあったのだが、どちらかというと、 その原因はカノンに関係しているといえよう。

 彼に、聖衣を纏った姿を見せることができなかったのである。

 果たして彼は、兄の偉業を喜んでくれるだろうか。
 敗北者としての悔しさを思い起こさせてしまうのではないか。

 幼かった当時の考えである。
 今になって考えれば、滑稽な思考であると笑い飛ばせるものだろう。
 黄金聖闘士として、様々な勅命や任務をこなし、他の聖闘士や兵、訓練生達を見続けてきたので ある。
 聖域、聖闘士の世界は、そのような甘い考えで成り立つようなところではない。


 ――――― そのことに、もう少し早く気付いていたとするなら、 カノンはどうしていただろうか・・・


 当然そう考えを巡らせてみたこともある。

 共に女神のために戦い続けることができればどんなに良いことか ―――――

 そう思い続けていたのは、いつ頃までだっただろう。


 ――――― 双子座の聖衣は、何故対になっていないのか ―――――


 そう考えたことも当然ある。
 他の聖衣が星座の形を模しているのに比べ、誰の目から見ても双子座の聖衣の形状は 明らかに異常であるといえた。

 ――――― 二つの顔に二対の腕。

 一度たりとも口に出したことこそなかったが、神話の時代には、 この聖衣自体が二対あったのではないかとも思えてならなかった。
 何らかの事情があって、1つの聖衣・・・ 器に入れられてしまったのではないかと ―――――

 もしそうであるならば、今頃は右の面の聖衣を自らが纏い、左を纏うのは ――――― 当然 カノンであろう。

 離れて住んでからもしばらくは、その思いが消えることはなかったはずだ。
 だが、暇さえあればこの家に通い続けていたサガの足も次第に遠のき、顔を合わせることも珍しく なった頃、彼にとってのカノンは『お荷物』に他ならない存在に変わっていたのである。

 時折は口喧しく身の振り方を考えるよう諭すこともしてはいたが、必要以上にそれをする ことは滅多にない。
 一度機会を逸してしまうと、態度を翻すことほど難しいものはないのである。

 第一、今更何と言ってカノンを陽の当たる場所に連れ出せば良いのか ―――――
 双子座の黄金聖闘士のその名の通り双子の弟でありながら、この聖域内にて怠惰な生活を貪って いる彼の存在は、完璧な聖闘士を自負するサガ自身の汚点となりつつあったのである。

 後に、カルディスが弟子をとってこの聖域を離れた際に、サガがこの家の管理を申し出たことも、 そんな事情からのものであったのだ。


 ――――― 寝食に必要な物程度しか置かれていない家。


 普段の食事はどうしていたのだろうか。
 どんなに頑張ってみても、あまり善意的な解釈はできそうにない。

 レイファの一件があってからは、サガの足は余計に遠のいていた。
 弟子をとったアイオロスに代わり、全面的に十二宮の守護を任されたという名目も あったが、理由はそれだけではないことは自分が一番良くわかっている。
 当然カノンの生活を知る術はほとんどなかった。

「確かに・・・水がまだ残っているな・・・」

 昔使っていたままの古びた水瓶の底に、僅かに水が残っている。
 その瓶は決して小さな物ではないが、一人で暮らすのにそれほど並々と貯めて置く必要もない。
 以前の習慣のままであるならば、必要最小限の水しか蓄えていないはずだ。
 瓶の内側の低い位置に残る白い輪がその説を裏付けている。
 つまりは、彼が消えてから数日ほど経過していることを意味している。乾燥した 気候ならではの判断であろう。
 これもアイオロスの言う通りである・・・


 ――――― 『カノンが消えた』というアイオロスの言葉を聞いて、 サガは動揺を隠すことができなかった。


 いや、正確には、動揺を隠すので精一杯だったといえよう。
 その後間もなく教皇の間において執り行われた新人聖闘士との初顔合わせの内容など ほとんど覚えていない。
 ありふれた決り文句のような祝いの言葉を述べるに過ぎない短時間の儀式が、どれだけ長く 感じられたことか・・・

 ――――― カノンが姿を消したことに動揺したのではない。

 その『時期』の問題なのである。

 先にも述べた通り、彼が聖域から姿を消すことは日常的なことで、1ヶ月近く戻らぬことすら それほど珍しいことではないのである。
 いつもなら、取り立てて騒ぐほどのことでもない。

(だが・・・何故 ――――― )


 ――――― 何故、この時期に ―――――


 恐らくは、黄金聖闘士の称号試験の結果を知った上で聖域から出て行ったのであろう。

 それに何か意味でもあるというのか ―――――

 当然この時点で、サガがカノンの行き先を知る由もない。
 もしかするといつものように、ただ近くの街をうろついているだけかもしれないのだ。

 ――――― だが・・・

 サガには、どうしてもそうは思えない理由があったのである。

 その『理由』を言葉で説明することなどできはしない。
 当然他人に理解できるはずもない・・・

 ――――― カノンは、双子の片割れなのである。

 あの、ジェミニの聖衣のように・・・もしかすると1つの器しか賜らずにこの世に生を受けた かもしれない、『自分自身』とも言い換えることのできる存在なのである。
 それ以上でも以下でもない。

 相変わらず、彼の考えることや行動の真意は全く理解不能ではあったが、こういう『予感』めいた 感覚だけは、不思議なほど当たらぬことはなかった。
 共に修行を始めた頃から、顔を合わせることも少なくなった現在においても・・・である。

 その『予感』が、彼にこう告げていた。


 ――――― カノンは、何かをしようとしている ―――――


 それが、漠然とした意味で良いことなのか、それとも逆をなのか・・・さすがにそこまでは 彼にもわからない。
 その行動自体に何かの意味があるのかも、些細な意味すらも持たないのかも。
 その結果、カノン自身やサガにどのような影響が生じるのかも ―――――

「これ以上、厄介なことをしでかさなければ良いのだが・・・」

 居住区の食料庫の備蓄食料の数量が微妙に足りなくなっていた時。
 聖域近くの街や村で、常人離れした不可解な事件が巻き起こった時・・・
 何度カノンの顔が浮かんだことであろう。
 実際、彼が関わっていたことも何度かはあるだろう。

 その『事件』を、サガの手でもみ消すべきかどうか ―――――

 何度悩んだことであろう。
 カノンのためを思えば・・・どうするのがベストであったのだろう。

 いや、それは『カノンのため』であったのだろうか ―――――

「いや、今はそんなことはどうでも良いことだ・・・」

 恐らく、カノンはしばらく聖域には戻らないであろう。
 はっきりしていることは、それだけである。

 いっそのこと、このまま戻らなければ良い・・・そんな考えが頭に浮かぶ。

 レイファが死んでから、彼と顔を合わすことが苦痛にすら感じられていた。
 カノンの姿を見ることも、自分の姿がカノンに見られることも・・・

(恐らく ――――― いや、間違いなく、少なくともあの事件以降の私は、自分のために カノンを庇い続けていたのではあるまいか)

 自らの保身とためといっても過言ではない。
 だが、カノンの存在を隠し続けることで、サガは『完璧な黄金聖闘士としてり誇り』を持つことが できた一方で、『必要ないはずの罪悪感』までもを抱え込まなければならなかったのである。

「・・・サガ?」

 不意の言葉に、驚きの声を飲み込んだ。
 この場に他人が訪れること自体稀であるはず。しかも、名まで呼ばれるとは・・・

「驚かせるつもりはなかったんだけど・・・」

 木戸の外から中を覗き込んでいたのはアイオリアであった。

「アイオリア・・・? 何故ここに・・・」
「ごめん・・・家にいなかったら、ここに行ってみるように・・・って兄さんが・・・」

 そのようなつもりはなかったが、若干表情が険しいものになっていたのであろう。
 黄金聖闘士の称号を持つ者としては余りにも似つかわしくない脅えた声でそう答えた。

「アイオロスが・・・?」
「うん。これをサガに渡すように・・・って」

 渡されたのは、手紙であった。
 慌てて封をしたのであろう、若干合せ目が曲がっているのが彼らしい。

「中は見てないから」

 さすがに声から脅えの色は消えてはいたが、普段の彼であるならこんな言葉を付け加えることは なかったであろう。

 サガは他人に苛立ちを見せたことがない。
 今でこそ、その表情は普段通りの穏やかなものとなっていたが、アイオリアにとって先刻のサガの 表情は異様なものであったに違いない。

 先刻まで顔を合わせていたはずのアイオロスからの手紙を貰うという事自体、訝しく思う べきことなのだろうが、アイオリアの手前、今度こそそれを表情に出さずに手紙を受け取り、 その場で封を開けた。

「・・・・・・」

 殴り書きの文章を流し読みする。
 手紙には、カノンが聖域の外に出たらしいという情報を手に入れた・・・と、 ただそれだけが書かれていた。

「それじゃ、確かに渡したから・・・」

 やはり気まずさを感じるのだろうか、アイオリアはその場から立ち去ろうと踵を返す。

「あ、アイオリア」

 思わず呼び止めた。

「その・・・すまなかった。ここに人が来ることはとても珍しいことだったから、 本当に驚いたんだ」

 同格の聖闘士に対してというより、 明らかに『友人』の弟へ向けたかのような口調であった。

「確か、アイオロスは・・・今は宮の守護の最中だったな」

 足を止め、振り向いたままの姿勢で彼は頷く。

「家に戻ったら、確かに受け取ったと伝えてくれ。礼も忘れずに」

 アイオリアの顔が僅かに綻んだ。

「そして、アイオリア・・・お前にも礼を言おう。わざわざ足を運んでもらって感謝する」

 最後の言葉は、明らかに黄金聖闘士へ向けたものであった。
 そのニュアンスの違いを汲み取ったのか、アイオリアの表情は更に晴れやかなものとなる。

「・・・・・・」

 何故だか、立ち去っていくアイオリアの後姿が眩しく感じられた。
 黄金聖闘士が持つ小宇宙や、いわゆるオーラのようなものとは明らかに違う眩しさ。

 完璧な先輩聖闘士を演じるために、心の狼狽を隠しきった作り笑いを浮かべて彼を見送りながら サガはそう思う。


 ――――― 何故こうまでして、自ら『完璧』にこだわるのか・・・


 何度か考えてみたこともあるが、答えが導き出されたことはない。

 だが、聖闘士としての自分の原点でもあるこの家は、いつもより少しだけ彼を素直にさせる 空間であるのかもしれない。

 現に、この場におけるサガの思考の大半は、レイファの死後に抱くようになった、自らの存在 意義を問うような質のものとは全く異なっていた。
 サガ自身、それを意識していたのかは定かではないが、兄が弟に向けるという意味では、 比較的ありふれた感情に近いものがあったと考えられる。
 今日の彼の自問自答は、恐らくは・・・人間なら誰もが抱くであろう、単なる『困り事』と さほどの違いはないであろう。


 ――――― 黄金聖闘士は、必ずしも完璧である必要はないのではないか・・・


 そればかりかこの時、サガは初めてそう感じたのである。

「・・・ふっ」

 自嘲気味に声を漏らし、目を伏せる。


 ――――― 私らしくもない ―――――


 サガはそのまま家を出た。
 目を伏せたまま後ろ手に木戸を閉める。

「さあ、これから忙しくなる」

 全ての黄金聖闘士が聖域に揃った以上、女神の降臨、 そして聖戦の勃発は時間の問題であろう。
 森の中の散策に時間を費やしている場合ではない。


 ――――― ましてや、自らの身内の問題など、取るに足らないことだ。


 サガは歩き始めた。
 迷いや苛立ちは、幼き頃を過ごしたこの家に全て置き去りにして、一度たりとも振り向くこと なく・・・女神の聖闘士らしく、その頂たる黄金聖闘士らしく凛とした表情で。

 まるで未来を見据えるように ―――――





『SAGA』 第一章 第二十話に続く・・・

一つ前の話を読み直す





あとがき・・・


 ちょっと書き足りない面もありますが・・・この話は後につながってくるものなので、 余り書き過ぎるわけにもいかず・・・(滝汗)

 さて・・・序章込みで20話にもなってしまったこの話・・・
 第一章はどこまで進めるべきなのでしょう・・・?(聞くな)

 女神降臨か教皇殺害事件かアイオロスの脱走か・・・大体この辺までを考えていたのですが、 とりあえず・・・そろそろゴールが見えてきたような気がします。
 少なくとも、第一章内に入れておきたい話はあと3話。
 そしてクライマックスが1〜2話ってとこでしょうか・・・
 『ゴールが見えた』とはいえ、まだ時間はかかりそうですね(笑)





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